佐野東石美術館では、地元作家の田村耕一の作品を2階の一角にコーナーを設けて展示しています。数多い蔵品の中から、年4回作品の入替えを行っています。

〈田村耕一略歴〉

大正7年(1918)
6月21日、栃木県佐野市富岡町19番地に生まれる。
(雛人形・鯉幟・羽子板製造の三代愛林斎観月、田村林次の次男として生まれる。)

昭和16年(1941) <23歳>
東京美術学校工芸科図案部卒業。
私立南海商業学校(大阪府堺市)のデザインの教師となる。

昭和17年(1942) <24歳>
8月、宇都宮第36部隊に召集され兵役に服する(学校を辞す)。

昭和21年(1946) <28歳>
富本憲吉の誘いにより、輸出陶磁器のデザイン研究所設立に参加するため、京都に赴く。京都の松風研究所に藤本能道とともにデザイナーとして入所、輸出陶磁器の模様デザインを手がけるかたわら、陶芸の技法についても学ぶ。

昭和22年(1947) <29歳>
新匠美術工芸会が創立され参加。

昭和23年(1948) <30歳>
4月、郷里に帰り赤見窯の創業に参画する。
第2回栃木県芸術祭で《鉄絵銅彩百日草文鉢》を出品、芸術祭賞を受賞、審査員の濱田庄司に認められる。

昭和24年(1949) <31歳>
4月、佐野市久保町に倒焔式の薪窯を築く。

昭和25年(1950) <32歳>
濱田庄司の推薦を受け、
益子の栃木県窯業指導所技官となる

昭和26年(1951) <33歳>
栃木県陶芸作家展に出品する。

昭和28年(1953) <35歳>
佐野市久保町に四袋の登り窯を築き作家活動に入る。
(栃木県窯業指導所を辞める。)

昭和31年(1956) <38歳>
日本橋高島屋で第1回個展開催。(以降、昭和60年の24回展まで毎年開催)
第5回現代日本陶芸展で《藁灰釉芒文楕円皿》が朝日新聞社賞ならびに松坂屋賞を受賞。
(以降、昭和37年11回展まで出品、昭和33年第6回展で《鉄釉草文大皿》にて同賞受賞)

昭和32年(1957) <39歳>
日本陶磁協会賞を受賞。

昭和33年(1958) <40歳>
佐野市文化財保護審議委員会委員に推される。

昭和34年(1959) <41歳>
国立近代美術館主催「現代日本陶芸展」に《鉄釉楕円皿》を招待出品する。
(以降、東京・京都国立美術館に、昭和38年、39年、43年、45年に招待出品する。)

昭和35年(1960) <42歳>
第7回日本伝統工芸展で《鉄釉草花文大皿》が奨励賞を受賞。
(以降、毎回出品、受賞を重ねる)

昭和36年(1961) <43歳>
新匠会会員となる。
第16回新匠会展で《緑釉梅文楕円皿》が富本賞を受賞。佐野宝龍寺和光殿にて個展を開催。(昭和41年にも同寺で個展開催)

昭和37年(1962) <44歳>
日本工芸会正会員となる。(第9回日本伝統工芸展の鑑査委員に推され、以後鑑査委員をつとめる)
佐野市庁舎ホールの陶壁《伸びゆく佐野》を制作する。

昭和38年(1963) <45歳>
佐野商工会議所で市制20周年記念の個展を開催。

昭和40年(1965) <47歳>
栃木県文化財調査委員会委員に推される。(昭和42年までつとめる)

昭和41年(1966) <48歳>
日本工芸会理事に推される。

昭和42年(1967) <49歳>
東京芸術大学助教授となる。
トルコのイスタンブール国際陶芸展で《鉄釉菊花文深鉢》がグランプリ金賞を受賞。

昭和43年(1968) <50歳>
日本工芸会常任理事に推される。
通産省主催の国際芸術見本市アメリカ巡回展にて、2ヶ月間オーガスタニア大学、メリークリスト大学、ヒューストン大学に派遣され、陶芸を指導する。

昭和45年(1970) <52歳>
栃木県文化功労賞を受賞。

昭和46年(1971) <53歳>
毎日新聞社主催の第1回日本陶芸展に推薦招待される。(以降出品)

昭和47年(1972) <54歳>
日本工芸会陶芸部会長に推される。
栃木県文化協会理事に推される。

昭和50年(1975) <57歳>
日本陶磁協会賞金賞を受賞。
栃木県文化協会常任理事に推される。

昭和52年(1977) <59歳>
東京芸術大学教授に就任する。

昭和53年(1978) <60歳>
佐野市文化会館ホールの陶壁《翔鶴》を制作する。
佐野市政功労者の表彰を受ける。

昭和54年(1979) <61歳>
紺綬褒章を受章。
12月 日本橋三越にて染付展を開催。

昭和55年(1980) <62歳>
日本工芸会副理事長に推される。

昭和58年(1983) <65歳>
インド、パキスタンで陶磁器製作を視察する。
佐野市文化会館運営委員長に推される。
11月、紫綬褒章を受章する。

昭和59年(1984) <66歳>
ドイツ・ミュンヘンで個展開催。(フレッド・ヤーン画廊)
ドイツ巡回の「土と炎展」に出品、デュッセルドルフ陶磁会館、ミュンヘン美術館にて「日本のやきもの」の講演を行う。

昭和61年(1986) <68歳>
重要無形文化財保持者(鉄絵陶器)に認定される。
東京芸術大学名誉教授に推されるとともに同大客員教授に就任する。
7月、
佐野市名誉市民となる。
宇都宮市庁舎ホールの陶壁《宇都宮の詩》を制作する。

昭和62年(1987)
1月3日、死去。(68歳)
従四位勲三等瑞宝章を受章。



「青瓷釉柿壷」

「染付銅彩葡萄陶板額」

「鉄線花文壺」
〈田村耕一の世界〉
1986年(昭和61年)68歳、鉄絵陶器で重要無形文化財に指定されました。(重要無形文化財保持者は通称、人間国宝)鉄釉陶器では石黒宗麿(昭和30年)・清水卯一(昭和60年)が既に陶芸史に刻まれていましたが、鉄絵では初めての快挙でした。鉄絵は古くは一般的に鉄砂と呼ばれ、黒褐色の初期の李朝陶器(韓国)にみられ、わが国では絵瀬戸(瀬戸)、絵志野(美濃)、絵唐津(唐津)が伝統的な絵付技法として用いられました.鉄砂や鉄釉の仕事は尊敬する濱田庄司(益子)も好んで手がけました.田村はその鉄分を多く含んだ彩料で絵付をする鉄絵を生涯を通じて絵描き続けました.鉄絵はそれ自体は地味な色調ですが、多彩な釉薬や技法を融合した厚みのある仕事により豊かで穏やかな美しい表情が生まれます。

「黒釉鶴八角陶匣」

「絵描きがキャンバスに絵を描くように、私は土と釉薬を使って美しいもの、それでなければできない味わいのものを作りたいと思います」(杉浦澄子『陶芸家との対話 上 』雄山閣出版 1995刊)というように、やきものでしか表現できない絵と形の融和をめざしました。陶器の形(フォルム)を生かした、立体的な三次元のキャンバスに調和する絵付を多彩な釉薬(灰釉、鉄釉、柿釉、黒釉、白泥釉、青磁釉、銅彩)を組み合わせ、多種の技法(流し掛け、掛け分け、ろう抜き、絞り描き、掻き落し、重ね掛けなど)を使用し、多岐にわたる作品(壷、鉢、皿、花生、瓶、陶匣、茶碗、水指、香炉、酒器、湯呑など)を作りました。その生命である絵の文様(デザイン)は、師、富本憲吉の「模様から模様を作らず」を信条に、自然観察に基づき本質を捉えた、抽象化し洗練されたものです。渡良瀬遊水池やアトリエの庭など、佐野周辺の日常に見られるごくありふれた動植物(鷺、竹、梅、柿、椿、鉄仙、ほたる袋、柘榴など)を親しみと愛情をもって文様化し絵付を施しました。
「見わたせば 花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ」(藤原定家)
モノクロームの水墨画の背景に溶けてゆくような世界が目の前に広がってゆきます。温かく柔らかな鉄絵が陶土と一体となり独自の和の世界が展開します。

写真で紹介した作品は所蔵品の一部です。作品のお問い合わせは0283−23−8111で受付けております。

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